リノアは肩で細く息をついた。 胸の奥に残る震えが、まだ完全には収まっていない。それでも隣に立つエレナに顔を向けて、絞るような声で問いかけた。「どうやって、倒したの?」 エレナは少し考え込んだ後、矢筒に手を添えたまま口を開いた。「……正確には、逃げただけ。まだ倒したとは言えないわ。あの見えていた姿は、ほんの表層。奥に潜んでいる本体は別にある」 エレナは目を細めて、霧が消えた先を見つめたまま答えた。「矢にルミナスの祓石を仕込んでおいたの。霧に近い性質だったから、効くと思って」 そう言って、エレナは矢筒に残る矢にそっと指先で触れた。 矢尻に埋め込まれた銀の鉱石──その表面には細かい模様が刻まれている。これはルシアンを探していた時に、街で手に入れた鉱石のひとつだ。「この鉱石は霧を払う力がある。だから、それに賭けてみたのよ。実体がないから普通の矢で射っても無駄だと思ってね」 リノアは頷いたものの、心の奥には言葉にならない違和感が残っていた。 あの場面──空気が歪み、影が迫る中、エレナは一度も恐怖に囚われなかった。 茂みの中で息を潜め、狙いを定め、迷いなく矢を放つ。その一連の動きに、ためらいは微塵もなかった。 恐怖心はなかったのだろうか。シオンの研究所で対峙した獣たちのような露骨な敵意こそ感じなかったが、それでも、こちらの行動一つで命を奪われていた可能性は十分にあった。あの影には、そう思わせるものがあったのだ。 それに、どうしてエレナは、あの影が霧状のものだと判断できたのだろう。エレナが取り込まれた影とは別のものだったはずなのに…… 影は形を持たず、敵かどうかすら曖昧だった。それでもエレナは感情に飲まれず、影の性質を正しく見極めていた。 あれほど冷静に迷いなく行動できたのは、獣の息遣いや風の流れ、命の重さを日々の狩りの中で見極めてきた自信と確かな経験があるからだろう。 だが、それだけではない気がする。 エレナには、誰かを守るという確かな想いがある。その強さがエレナを恐怖の波に呑まれることなく、影に向かわせたのだ。 リノアはふと、自分の手元に目を落とした。 まだ指先に震えが残っている。──私は、きっと戦えない。 その想いは言葉になる前から胸の底に沈んでいた。 相手が何者であれ、傷つけたり、命を奪う事など私にはできない。 エレナに
黒い影が、木々の隙間で揺れている。 風もなく、葉の一枚すら動かぬ静けさの中、その輪郭だけが揺らぎ続けていた。 空間が何か別の理で動いているように、歪みがそこに滲んでいる。 リノアは喉を詰まらせながら、目を凝らした。 霞む意識の向こうで、黒い影が静かに形を変えている。 服の裾らしき布の揺れ、靴のような形、そして人間のような腕…… 徐々に、影は何かの輪郭を帯びていった。 それは確かに存在し、見えている。だが、手を伸ばしても届かない気がするのだ。 どこか現実的ではない感覚──視覚と感覚が微妙に噛み合わない…… まるで薄い幻の膜に包まれたかのようだ。 リノアの知覚が掻き乱されていく。 見えているはずなのに捉えきれない。意識を撹乱する何かを、その存在が意図的に見せているのではないか。 周囲の空気はじわじわと滲み、質量をもったように重く沈んでいく。形のない気配が広がり続け、気づけば空間の中心がその影に占められていた。 時間の断層へ引きずられかけたあの時と、似て非なる空気── 歯を食いしばりながら立ち尽くすリノア。握る鉱石の感触だけが、意識を繋ぎ止めている。 じりじりと、時間だけが静かに過ぎていく、その瞬間── リノアの背後で空気がうねった。 何かが、空気を切り裂き、リノアのすぐ脇をすり抜けていった。 頬にかすかな冷気の感触。風ではない。一条の流れ── 霧の奥で何かが弾けるように音を立てた。膜が破れたような音だ。 密度の高い空気が揺らぎ、幻に見えた霧を纏った空間がほんの少しだけ剥がれる。 リノアは息を止めたまま、状況を見極めた。──何かが放たれた。 それは、確かにこちら側からのものだった。 きっと、エレナだ。 エレナが矢を放ったのだ。そう直感した瞬間、リノアはすぐに身を伏せた。邪魔にならないよう、地面に片膝をついてしゃがみ込む。 その動作とほぼ同時に、背後でふたたび空気が裂けた。 第二の矢が音もなく放たれ、霧の中を切り裂いていく。 空間が軋むような一瞬の沈黙…… 矢が空を裂いたその瞬間、辺りを満たしていた霧が銀の閃きと共に辺りに弾け飛んだ。視界が徐々に晴れていく。「リノア、大丈夫? 怪我は」 澄んだ声が背後から届く。 エレナが歩み寄ってくる。 身じろぎ一つせず、身を潜めていたのか。全く気付かなかった。エレナは弓
井戸を囲むように三方向へ伸びる水路が過去を物語っている。 広場の中心に佇むのは、縁の欠けた石造りの井戸。 今ではすっかり水脈が途絶え、苔が染みついた石枠だけがその場に残されている。 かつて、この広場には高所から水が供給されていた。 地下を通って低地へと流れ込んだ地下水は、そこから吹き上がって噴水となり、西へ、東へ、そして傾斜に沿ってさらに地下へと枝分かれしていった。 広場の中心から放射状に水が巡るその構造は、まるで湧き出す水が、この場所全体に命を通わせていたかのようだった。 人々がその水に集い、風にしぶきを乗せていた頃の名残が、今も静かにそこに息づいている。 セラは井戸の脇に立ち、手で苔むした縁をそっとなぞった。「昔はね、この井戸から水が湧き出してたの。三本の水路を伝って町のあちこちへ流れてた。水が吹き上がらなくなっても、しばらくの間は井戸として使われていたんだけど、いつの頃からか水が出なくなって……」 セラの声には懐かしさが込められている。 少し視線を遠くに投げてから、セラが続けた。「子どもの頃は、ここが町の中心だと思ってた。人が集まって、声が響いて、季節の花が水路の脇に咲いてね。風が水に触れるたび、細かなしぶきが空に踊っていたの」 アリシアは黙ったまま、セラの言葉に耳を澄ませていた。 その語りが広げる記憶の景色が、自然と脳裏に浮かび上がっていく。 花が咲く水路の縁、風に揺れるしぶき、響き合う人々の笑い声…… アリシアにとっては初めて訪れる土地。だけど、この地に住む人たちにとっては思い入れのある大事な場所だ。 それが今はこのようなことになっているなんて……。 周囲には店がぽつりぽつりと残っている。しかし、どれも半ば閉じられているか、人の気配がない。軒先には古びた看板が揺れ、通りを行き交う姿もまばらだ。 ひと昔前に賑わっていたであろう面影は、まるで擦り切れた記憶の端に残る幻のようだった。 男は「張り巡らされた水路の一角に店がある」と言っていた。 道が折れ曲がって、地下への傾斜が始まる辺り…… アリシアは男の言葉を思い返しながら、水路の跡を辿っていく。 歩いていると、ひと気の途絶えた路地を抜けた先に、石畳の斜面が現れた。その傾斜は緩やかに地下へと吸い込まれるように続いている。 アリシアは立ち止まって、周囲に目を巡らせた
「張り巡らされた水路の一角に、ヴィクターが好んで使う場所がある。いや正確には、“あった”か。三叉路になっている水流の交点、かつて噴水があった場所の近くだ。道が折れ曲がって地下への傾斜が始まる辺りだな」 男は視線をアリシアの地図に向けながら、言葉を発した。「この辺り……だと思う」 アリシアが男の言葉を聞き終えるのとほぼ同時に、すぐ隣に立っていたセラが地図を指し示した。「噴水の跡っていうのは、この広場の中央にある枯れた井戸のこと。三叉路の水路は、そこから西と南、そして、もう一つは傾斜を辿って地下へと流れてた」 アリシアはセラの指す位置に視線を落とした。「その地下通路に面した店だが、かつては酒場として使われていた。隠れ家として人気を博していたが、今では、もうすっかり忘れ去られている」 男はそう言って、視線を遠くに向けた。「仲間が追跡していた時、ヴィクターがそこに入って行ったのを目撃している。今もその場所を使っているんじゃないか。隠れるのに、それ以上の最適な場所はないからな」「それって、今は居ないかもしれないってこと? これでは、確かな情報とは言えないわね」 アリシアは地図から視線を上げ、呆れた眼差しで男に目を向けた。 その声には軽い皮肉が含まれていたが、完全に突き放すほどではない。「ヴィクターはずっと見張るほどの存在じゃないと思っていたんだ。正直、そこまでの価値があるとは思えなかったからな」「それでは、その間、あなたは何を追っていたの? グレタの追跡は失敗したんでしょ」 問いかけは感情を抑えた調子だったが、その奥には鋭い違和感が込められていた。 ヴィクターを放置し、グレタを追った。それなのに足取りを見失っている…… アリシアの言葉に、男はわずかに眉を寄せた。 男は短く間を置いてから、低い声で応える。「すでに話した通り、グレタは常に五人一組で動いている。ヴィクター以外は手慣れた連中だ。追跡するのが難しいというのもあった。だが、それだけじゃない。どうも、その他にも禁足地の内側で活動している連中がいるようなんだ」「それは、私の友人、二人以外でってこと?」「ああ、そうだ」 その言葉に、アリシアは息を呑んだ。 驚きと緊張が混じった視線が地図へ吸い寄せられる。「禁足地って、そんなに簡単に入れるところなの?」「いや、よほどの腕がない限り
苔の上を刻むように続いていた足跡は、小道の外れで唐突に途切れていた。 リノアは周囲に目を走らせた。しかし踏み荒らされた痕跡はない。折れた枝も、散乱した葉も、何一つ…… リノアは膝を落として、最後の足跡に手を添えた。 柔らかな苔に沈んだ足跡の深さ、足先の向きと傾き── 間違いない。これはエレナのものだ。 この辺りまでは、足取りには迷いがなく、周囲に警戒した様子はなかった。どうして、この場所で足跡を消す必要が…… 足を滑らせて川に落ちたわけでも、何かに引きずられたわけでもなさそうだ。事故ではなく、自らの意思で足跡を消している。──この場所で、一体何が…… リノアは息を吐いて、冷えた空気に指先をかざした。 風の流れは異様に均一で、場全体が呼吸を忘れているかのように空気が淀んでいる。 リノアは意識を周囲に飛ばし、その違和感を探った。 空間の一角──風が拒まれるように流れが滞り、そこにだけ渦のような歪みが生じている。 あの茂みの奥。 そこに、何かが潜んでいる。 リノアは茂みの奥に目を凝らした。 森が呼吸を忘れたかのように沈黙している。葉擦れすら音を拒むほどの静けさ…… 気配は確かに、そこにある。だが姿はどこにもない。その場に漂うのはエレナ以外の何かの気配だけ……──今まで感じたことがない異質な気配だ。 目に見えない膜のようなものが、辺りを覆い尽くしている。 リノアは意識を伸ばし、その揺らぎにそっと触れた。 その瞬間──気配が動いた。──相手もこちらの存在に気付いている! リノアの背筋にひやりとした緊張が走った。 動物的な察知というよりは、もっと深い領域── それが応えか……。 相手は、こちらの行動に明確な反応を示した。 歓迎している様子はないが、敵意を剝き出しにしているわけでもない。 相手も、こちらを推し量っているのかもしれない。 相手からすれば、こちらが何者かも分からない。当然の反応と言える。 いずれにせよ、ただ者ではないことは確かだ。 その場から動かず、相手の出方を伺っていると、身を潜めていた何かが気配を強めた。 葉の間で空気が揺らぎ、森の静けさが反転する。 騒めき立つ森たち── 姿は見せずとも、その存在感は空気を押し分けるほど鮮やかだ。 もはや相手は存在を消し続ける気はない。 お互いの呼吸が自然と重
リノアはゆっくりと立ち上がり、湿った空気の中に身を滑り込ませるようにして、苔の張りついた小径を進み始めた。 森と水路が織りなす迷路のような禁足地、フェルミナ・アーク。その深部で誰も知らない気配がまた一つ動き出していた。──エレナは一体、どこに行ったのだろう。 リノアは周囲を見渡した。 影に囚われていたはずのエレナが、どこにも見当たらない。 代わりに残されていたのは湿った地面に刻まれた足跡── この禁足地に私とエレナ以外の人間がいるとは考えづらい。これはエレナの足跡と見て良いだろう。──軽やかで、迷いのない足取りをしている。 リノアは残された足跡を見つめながら考えた。 影に囚われていたエレナ── 何らかの方法でその束縛から逃れたのだろうか。あるいは影を倒した後、新たな敵が出現し、追われでもしたか…… リノアは足跡を頼りに慎重に歩を進めた。 苔むした地面に残る微かな乱れ、湿った空気に溶ける人の気配。それらが誰かがここを通ったことを示している。「エレナ……」 リノアは何度も名前を呼んだ。 しかし、どこからも返事はない。声は枝葉の隙間をすり抜け、森の奥へと吸い込まれていくのみ。 残るのは、沈黙だけ…… 影に囚われていたエレナ──その光景が脳裏に焼き付いて離れない。 あの時に見たエレナの穏やかな表情。 安らぎに見えたそれは、実際には違っていた。 苦しみから目を背けさせるために巧妙に織られた幻想。影が見せた偽りの映像だ。 本当の幸せを掴んだわけではない。 エレナはその仮面を纏わされたのだ。 森は沈黙したまま、全てを呑み込んでいる。 エレナの声も、足音も、記憶さえも──そのすべてが、この場所では意味を失っているかのように…… そっと息を吐き、リノアは指先で湿った苔に触れた。 そのひんやりとした感触が、“今ここにいる”という失いかけている感覚を、ゆるやかに呼び戻してくれる。 過去の痛みも、哀しみも、まるで無かったことにするかのような都合の良い世界。 だけど、そこからエレナは抜け出した。 影が織り上げた仮初めの安息を振り払って、自らの足で踏み出したのだ。 それを証明するように、苔に刻まれた足跡が残っている。 迷いのない歩幅、ためらいを感じさせない軌跡。足跡の深さ、その向き、歩幅……そのすべてが物語っている。 誰かに導か